とろり くものす

live



"うるせぇよ。"ライブ予定

1/30 立川BABEL
2/3 渋谷O-NEST
3/18 江古田 Flying Teapot

詳しくは、 http://uruseeyo.web.fc2.com/index.htm まで。
myspace : http://www.myspace.com/uruseeyo

| ライブ | 15:30 | comments(0) | -
大磯の左義長(大磯町)



 有名な大磯の小正月行事。本来14日の行事だが、今は14日に近い休日に行われている。
 サギチョウとは全国的にトンドヤキ、サイトウなどの名前でも広く分布している火祭である。三毬杖、三鞠打とも書き、三本の松や竹を三脚にしてたて、火鍵かけとして使い屋外で共食する風習が平安の宮廷で行われていたそうで、そこから発生したものだとみられている。餅花を焼いたりするのはその遺風と考えられる。
 大磯の左義長は道祖神のお祭りとも習合し、道祖神祭りとも呼ばれている。

 大磯北浜海岸につくと、サイトと呼ばれる大きな塔が見える。これは松の大木を芯にして、門松や正月飾りを円錐状に積み上げたもので、中心に竹を建てて先端に飾りや色紙で吹流しをつけてあるのが風にたなびいてとても綺麗だ。


 数えてみると、サイトは地区ごとに9つ立っている。配置について地元の人がいっていたことには、「何か意味があるだろうがわからない」そうなので、毎年決まった場所に立てられてはいるのだろう。浜辺で燃やされる火塔の配置とすると何かの星座じゃないだろうかという連想が浮かぶ。それがもともと9つではなかったようなふしがあり、左義長に付随する行事に「七トコ詣り」と呼よばれる、七か所の道祖神に詣でる風習があることをあわせて考えると、元々は7つであり、やはり北斗七星を地上にかたどっているのかもしれない。
 サイトの飾り付けにはそれぞれ工夫があり、見ていて楽しい。オンベ竹の先端までの高さは8、9メートルほどだろうか。大きいが圧倒される感じはない。昔は倍ほどの大きさがあったといい、やはりそれぞれの家が正月飾りをしなくなったのが直接サイトの大きさに現れているのだろう。サイトを立てたあとから置いたのか、サイトのまわりにはばらばらにおかれた飾りもあり、人形やぬいぐるみなんかも見えた。
 サイトのそばにはそれぞれの道祖神やサイノカミの像が運ばれて、海に向かって座っている。団子を枝に差したマユ玉が供えられているのが、なんともいえない小正月の風情だ。



 6時を過ぎたころ、あたりは急に暗くなってくる。7時を待って、いよいよ点火。あちこちのサイトがつぎつぎ火に包まれ、風にあおられた煙が海岸にもうもうと立ちこめる。この火で焼いた餅を食べると病気をしないといい、みんな竿の先に餅をつるして焼いている。火がついて明るくなると、いつの間に海岸にこんなに人が集まったのかというほど、大勢の人出がみえた。

 興味深いのは、サイトが焼け落ちそうになったときに、縄を引っ張ってアキの方、つまりその年の恵方の方角にサイトを引き倒すことだ。恵方は歳神がつかさどるめでたい方角のことであり、その年の福はそのアキの方位から流れてくるといい、その方向にサイトを倒すことは、恵方からくる福を招きいれようとする行為に他ならない。陰陽道の方位思想がとりいれられていることがわかるのだ。
 そのころ、次に「やんなごっこ」と呼ばれている綱引きがはじまる。堅木で作られたサイノカミのお宮に縄を一面に編みつけ、梯子のようなソリに結わえつけたものを海へと引き込み、人々が海方と浜方にわかれて引っぱり合うのである。
 まず海方の若衆が褌姿になり、お宮とともに海へ飛び込む。一月の夜の、極寒の海である。見ているほうが凍えそうな気持ちになってくるが、若衆が裸になるのは、魚を象徴しているからだと解されている。彼らはお宮のソリに乗って、浜方の人々がこれを浜の奥まで引き上げる。これはサイノカミのお宮とともに海の幸を引き上げる、大漁祈願の呪法だと考えられている。当然、浜方が勝つことに決まっているのだ。その後、お宮は壊され、火にくべられたはずなのだが、その場面は人の中で見えなかった。
 その後、若衆は褌姿のまま町内を練り歩いていたらしいのだが、僕はあまりの寒さにしばらくオキにあたっていたため気付かず、そのことを後で知って少し悔やんだ。

 今年僕が見たのはこの日に集約される大磯の小正月行事のうちあくまでもハイライトである左義長を見ただけであって、不勉強にもまだ全く全体像を掴めていない。
 ここにいたるまでには「一番息子」と呼ばれる亥の子突き行事があり、使用する松や竹を平塚方面に買いに行く「マツカイ」や、子供たちがお仮屋に籠る風習があり、オカリコたちの門付けがあり、七トコ詣りがあり、云々と、民俗図鑑には載っている。もっとも、人に聞いたところでは門付けも昔の話になり、お仮屋も火事を出して以来なくなり、松も防砂林から間引かれたものを使っているそうだし、その中でどのくらいのものが姿をとどめているのかはわからないが、また機会が巡ってくれば是非その辺りのことを見てみたいと思う。
 数々の民俗的思考や呪法から成り立つこの行事は少し調べてみただけでも謎めいていて、それだけに古い時代の遺風をのこしているということが肌で感じ取れるものだった。七夕といい、大磯というのは民俗の宝庫のように思える。海岸で祭りを見守る道祖神の姿に、それぞれの集落でいかにサイノカミや道祖神が大事に、そして親しく敬われてきたかがよくわかる。色々教えてくれた地元のおじさんが、「サイノカミさんは子供の神様だから、お宮で遊んでたら転んでも怪我しないんだ」と話してくれたのが印象的だった。



(1/16 大磯・北浜海岸)

| 千年と一日 | 23:33 | comments(0) | -
チャッキラコ(三浦市・三崎)

 チャッキラコは三崎漁港の仲崎・花暮集落に伝わる歌舞で、少なくとも二百数十年にわたって三浦三崎に伝承されてきた。母親や祖母たちの歌にあわせて6〜12歳ほどの童女が15人程で踊る祝いの踊りであり、大漁祈願の祈りでもある。
 踊りは1月15日の小正月(太陰暦による正月)の日に三崎総鎮守の海南神社とその本宮、および仲崎・花暮(写真・上)のそれぞれの竜神祠に奉納される。中心的な舞台となるのが海南神社であるため神社の神事舞踊と思われがちだが、古くは婚礼や船づくりの場にも招かれた、漁村の風流踊である。7つあったといわれる踊りのうち、ハツイセ、チャッキラコ、二本踊、よささ節、鎌倉節、お伊勢参り、の現在6つが踊られている。

 舞い手は扇と、「チャッキラコ」と呼ばれる、竹の棒に小豆を入れ色紙で巻き、両端に紙の房と鈴をつけた細工を使って踊る。チャッキラコは一般にコキリコといわれているものとおおむね同じもので、演目の中にひとつ、この道具を使う特徴的な踊りがあることから、現在は踊りの総称として「チャッキラコ」がもちいられている。別の「よささ節」「初瀬(ハツセ)踊」などの名前が使われていたときもあり、これはそれぞれ別に伝えられた風流歌があわさって全体を構成しているこの踊りの基本的性格を端的にあらわしているという。
 正月の晴れ着をまとって二列に向かいあって踊る振り付けにはとても素朴な美しさがあり、総じて簡潔で技巧を要さない所作のなかに、貧しい漁村の祝い踊りとしての繊細な情緒と、懐かしさをたたえている。楽器はなく歌だけなのだがリズミカルなその節回しがすばらしく、要所に舞い手がいれる囃し文句や掛け声が絶妙なアクセントとなって、舞の場に暖かな高揚感をあたえてくれる。
 昭和45年に国の無形文化財に選択されるまで、衣装は朱の袴に水干、金烏帽子をつけて舞われていたが、これは明治44年に新しく考案された衣装であるため、文化財指定に伴い明治以前の姿に復元されたのだそうだ。今年の衣装は新調されたばかりのものだと聞いたが、こういう踊りには仰々しい袴や烏帽子よりもやはり庶民的な晴れ着が似合う。だが、それすらも当時はなかなか大変なことだったには違いないだろう。

 チャッキラコが行われるために、毎年、仲崎・花暮両地区では、それぞれ踊り子がいる家に宿(当屋)ができる。近年は地区の会館などが代わりになることもあるというが、宿は衣装を保存し、1月7日過ぎから毎晩、踊りの練習などの世話や、食事の用意をする。昔はその日ぐらしの家がほとんどであったため、費用には大変に苦労したそうだ。くじびきで行われた時代もあったそうだが、野菜や味噌などを農家や商家にもらいにいくこともたびたびだったという。それでも踊りを氏神様に奉納するという誇りから、願いに上がると皆快く応じてくれたという。

 チャッキラコは江戸の小町踊りなどにも通ずるといわれる芸能風流だが、唄のなかには当然地域の地名や土地ならではの文句が盛りこまれている。それが聞いていてとても楽しい。たとえば三崎から伊勢詣でに出かけて帰ってくるまでの道中をうたった「お伊勢参り」で、
「もはや鎌倉藤沢こえて ここは平塚大磯小磯(コノ)晩の泊りは小田原よ」
「土産品々 買いととのえて 下向参りと大湊より(コノ)舟にとくとく 乗りゃしゃんせ」
「げにやあれこそ 三崎の森よ 下向まいりのお礼の踊(コノ)祝いおさめよ舞いおさめ」
 と締める最後はなんともめでたい土地の祝いの空気を伝えてくれる。

 昨年、チャッキラコはユネスコ無形文化遺産の代表一覧表に、県下ではじめて加えられた。そのためか、見物客の数は去年の倍以上、1200人ほどであったと報道された。僕も今回はじめて目にしたのだが、歌や踊りの素朴さからは考えられないほどの、見物人の多さに驚いた。海南神社の神楽殿で披露された村の踊りを、人々の群れが取り囲んで見つめていた(もちろん、その中には僕もいたわけだが)。それはやはり何か、奇妙なものに思えてしかたがなかった。
 県知事や市長の挨拶にあった言葉どおり、踊りは三浦三崎の貴重な伝統であり、すばらしい文化であることは疑いようのないことだ。伝承してきた地域住民や、保存に努めてきた人々のことを、とても尊敬する。これからも保存していくことには、もちろん、かえがたい重大な価値がある。
 ただ、これがその名の通り、遺産なのだということを忘れてはいけないのだと思う。元のありようを離れた「文化遺産」というものは、その本当の意味での伝統において、ある意味ではすでに滅んでしまっているものなのだ。いわゆる文化は、保存せられてはいるが、真の意味で現存してはいない。文化がことさらに文化として呼ばれるとき、それはいつだってそうなのだろう。
 自然がそのままでそこにあることが美しいように、伝統や民俗は生活の中に息づいていたことに、真の価値がある。文化を誇ることは正しいが、それはいつだって、すでに失われてしまったものなのだということを、忘れてはいけないのだと思う。
 民俗文化を見てあるく行為というのは、本来不自然な行為にちがいないのだ。だから、美しい行事を見世物にすることに加担しているようで、後ろめたくおもえてしまうことがある。自分のように、他所からやってきた見物人たちが踊り子を囲んでいることと、唄の音調を寸断し、暴力的なまでに浴びせ続けられるシャッターの音がつらかった。

(1/15 三浦市三崎港 参考:三浦三崎のチャッキラコ 他)

http://www.unesco.org/culture/ich/index.php?RL=00274&topic=video
ユネスコによる紹介ページ

| 千年と一日 | 23:57 | comments(0) | -
2009年へありがとう














二十世紀にさよならしてから、もう十年目だなんてね。
素晴らしい思い出の数々に、胸が震える。
新しい次の一年!
どこへ行くんだろう。
「僕らを、よろしく頼むよ。」






| 日記 | 23:21 | comments(0) | -
"うるせぇよ。"ライブ (12/28 新宿ウルガにて)



12/28(月)、ライブハウス新宿ウルガにて演奏します。
僕らの出番は21:30ごろから。

OPEN / 18:00 START / 18:30
Ticket: adv.¥1500 / at door.¥1800 (+1order)

出演:
■サーティーン
■imamon
■うるせぇよ。
■ドラムスボー
■CHEWZ
■STEINER

予約、お問い合わせは uruseeyo@hotmail.co.jp まで。

| ライブ | 18:07 | comments(0) | -
クリスマスの木



 この季節になると、どこへいってもクリスマスツリーを目にする。
 いままでなんとも思ってこなかったのだが、今年の冬オーナメントや電飾で飾られたクリスマスツリーをだんだん見かけるようになってから、どうしてクリスマスにはツリーが飾られるのだろう?と気になっていた。クリスマスはキリストの降誕節として説明されているが、新約聖書の描写には、それらしい樹は出てこなかったように思うからだ。
 日本の民俗信仰では、正月の榊や門松のように、樹がいたるところにあらわれる。それは山からおりてくる歳神や祖霊の依り代としての聖樹信仰そのものの表現であった。クリスマスツリーの先端に星が乗っかっているのを見るたびに、なんとはなしにそんな事柄との連想が浮かんでくる。星はキリストの誕生の場面で、厩へ博士たちを導いたあの星のことを意味しているのかもしれないし、それとも単に夜の森の風情を、そこにあらわしているだけなのかもしれないが。
 そんなことを考えていたら、読んでいた和歌森太朗の本にぴったりそのあたりのことがごく明快に説明されていた。前に書いてみた一遍上人のこととも一脈通ずる部分があるようにおもうので、すこし長くなるが引用してみる。

「キリスト教にしても、クリスマス・ツリーと呼ばれる樹木が民間信仰との交渉をよく物語っている。これは実は、1605年、ドイツのシュトラスブルグでのクリスマスに、初めて用いられたものだという。ゲルマンの民間信仰習俗にあった聖木崇拝、やはり、神霊が樹木に依りますとみる信仰にクリスマスを結びつけることにより、この生誕節を一般化できるようにしたのである。それがキリスト教の布教にも役立つとされたからである。ゲルマンの習俗としては、タキトゥスの『ゲルマニア』でも知られるけれども、それがキリスト教に含みこまれた時期は、ようやく17世紀初頭に及んでからである。
 前にセム族の聖樹信仰をユダヤ教・キリスト教がとりこんできたことを述べたが、そのように、成立の初期においてのみならず、クリスマス・ツリーで知れるとおり、その後の発展過程の中間においても、民間信仰習俗を随時摂取しながら伝道・伝播していったのである。
 キリスト教の降誕節としてのクリスマスは、もともと1月6日のエピファニー(公現節)と同じときに営まれた。これが12月25日になったのは、ローマ人の間で太陽神ミトラを祀り、ちょうどその勢いの最も衰えるところである冬至の時期を選んで、太陽の活霊の復活祭ともいうべき祭儀が行われていたのに結びつけたのだといわれている。そのときを古代ローマではサトルナリアともよんで、サタンである悪魔はらいのために、無礼講の宴を張っていた。そうした、民間習俗としての信仰行事が、救主キリスト崇拝の一表現としてのクリスマスに結びつけられたことで、その信仰を定着させるのに効果をあげたのであった。」

 樹木崇拝というのは、山や森に囲まれた土地に暮らしてきた人間たちにとって、ごく自然に培われてきた心情なんだとおもう。先に借りた文章が正しいならば、17世紀に布教のためにドイツで考案されたクリスマス・ツリーが他のキリスト教圏へと逆に輸出されここまで広く浸透しているのには、おのおのの民族が抱いてきた樹木への神聖な思いが奥ぶかい場所に横たわっているということなのかもしれない。

 明日はクリスマス・イヴだった。この時期になると、小さい頃に通っていたルーテル教会幼稚園のモルタル塗りの小さな聖堂での、賛美歌の合唱やハンドベルの楽団、パイプオルガンの音色のことを思い出す。今では園長先生の顔もはっきりとは思い出せないが、クリスマスがやってくると、やはり懐かしいような気持ちがする。牧師さんの説教をじっと聞いていることはとても苦手で、長椅子の堅い背に凭れて、いつも眠ってしまったのだけど。

| 千年と一日 | 23:15 | comments(0) | -
merde/us


Live at shinjuku URGA

| ライブ | 00:45 | comments(0) | -
(Strange but true)

| 日記 | 00:13 | comments(1) | -
遊行寺の一ツ火(藤沢)



 遊行寺の一ツ火に、今年もなんとか間に合うことができた。
 遊行寺と呼びならわされている清浄光寺は藤沢の中心街から少しはずれた川向こうの丘のうえにある。時宗独特の黒門をくぐりゆるやかな参道をのぼると樹齢500年とも700年ともいわれる大銀杏の横溢する秋のかがやきが視界を埋め、そのむこうに大きな遊行寺の堂宇がみえる。堂内はひろびろとして、鎌倉の古刹のような重厚さはなく質素なものだが、浅草寺から譲りうけたという本尊と黄金色に装飾された内陣は、ここが時宗の総本山であることを思いださせるのに十分な迫力をもっている。
 一ツ火は遊行寺の三大法要のひとつに数えられる十日間の別時念仏会の連日の修行うち、十一月二十七日の夜におこなわれる、法要のクライマックスである。一般に公開されているが非常に厳粛な行事であり、全国でも唯一ここに残ったものだという。
 滅燈式という呼び名もあるが、いずれにしろはじめからその語が使われたかどうかはわからず、一遍聖絵には「歳末の別時」とだけ記されている。文献上の所見は信州佐久郡で、1279年ということである。

 法要は三時間におよぶ。見るのは二度目で、はじめて目にしたのは一昨年だった。着込んでいてもじっとしているととても寒かったのをおぼえている。古くは表の雪の中で営まれたという別時念仏会はその遺風として、胡粉をあしらって雪が載っていることを表現した松や、堂内の灯をおおう風除けの唐箕や、雪道を掃き清める箒などの道具立てがあるという説明が、法要のはじまりに列席者になされた。
 だが、それは故事にならっているということよりも何よりも、この行事が自らのなかに採りいれてきた、土着的な民俗信仰を暗示するという。雪持ち松は正月の風情を象徴し、唐箕は稲作祈願の際に広くもちいられる呪具である。この日、内陣の本尊は無数の書軸によって覆いかくされて見えないが、歴代遊行上人によって書かれたというそれらの書はおおきな鳥居の形をした枠の下に掛けられているのだ。

 一ツ火という名称は法要の最終段階におこなわれる滅燈式に由来している。堂内の扉をとざし、電灯を消し、報土役と呼ばれる役僧が、内陣に灯された蝋燭の芯を順々におとしていく。大光燈とよばれる阿弥陀仏を象徴した蝋燭、それから堂内の入り口付近に据えられた、後燈という釈尊を象徴した灯りだけがのこされ、最後にこれらも同時に消える。あとに残されるのは眼を瞑ってみてもかわらない、完全な暗闇の世界である。身じろぎひとつ許されないような緊張感と一種の期待感が観衆をつつむ。それは筆舌につくしがたいほど濃密な、劇的な時間である。やがて、内陣から、低く、地を這うような念仏がはじまる。上人の念仏である。すると一瞬、内陣と後燈から青白い閃光が暗闇の中にはしる。「見せ火」とよばれる。その後、内陣に微かな光が立ち、その光が大光燈へとうつされ、阿弥陀仏になぞらえた新しい光が内陣を、そこからさらに分けられていく多くの灯明が堂内を照らすのである。念仏の歌が沸き起こり、哀感をもった音調が、法悦の空間を演出する。暗闇は一変し、堂内には念仏と光明が溢れだす。
 これほどに強烈な感覚に訴えてくる法要というのは稀だとおもう。そして分かりやすく、わざわざ言葉になおさずとも、そこで表現されたことの本質が何であるのかは、誰であっても理解することができる。完全な暗闇と、灯される一つの光は、見るものの感覚のすべてを呑み込み、そしてそこからはじまる念仏の合唱の音の美しさは、しかる後に何が訪れたのかを、一種の体験のうちに物語る、これは一幕の劇であり、同時にきわめて洗練された儀式だ。それは僕のような信仰というようなものを持たない人間であっても、何か魂が震えるような強烈な感動を受けずにはいられないものだった。

 一ツ火に臨んで、火を鑽(き)りだすチャンスは一度きりで、やり直すことは許されないということである。役を負った僧がもし鑽りそこなった場合、それは仏から見放されたことを意味し、寺門を追われる戒律があるということを知っておどろいたが、それほどに、儀式のなかで火を鑽ることは重大な意味をもつことなのだろう。

 行事の終わりに、法要の中で使われた紙燭が配られる。それは、新年最初の火をつける際に使うものだという。紙燭を握って寺門への階段をくだりながら、いま目の前で繰り広げられた一ツ火の法要が、おそらくは正月の火の土俗信仰を基盤としたものだということを、あらためて考えた。
 人生の節目や正月にカマドなどの火を鑽りなおすという習俗は各地にみられ、それは日々の生活のなかで穢れ、衰退した古い秩序を更新し、あたらしい身分や時間のなかに生まれ変わることを意味していた。そうしてあたらしい清浄な火とともに、あらたな生活をはじめようとするのである。(ただし、反対に年越しの火を絶やすことをタブー視する場合もある。いずれにしても、正月と火のかかわりは深い)
 法要の終わったあと振舞われる小豆粥にしても、特別な日にふるまわれる代表的な食事であり、まるで行事の中に深く食い込んだ民俗性を象徴しているかのように思えた。大乗仏教が大衆のあいだに広く深く浸透していった根底には、土地土地で育まれてきた信仰生活や風習との、親密な融和があったのだろう。ことに時宗は盆踊りなどの仏教芸能の形成に直接的に影響をもったであろうことは確実だし、柔軟に変化しながら、民衆の生活のなかへと受容されていったものなのだろうと思う。

(11/27 西富・清浄光寺 参考:神奈川県文化財図鑑他)

| 千年と一日 | 23:41 | comments(0) | -
面掛行列(鎌倉)



 奇祭として有名な、鎌倉・御霊神社の面掛行列。大正までは「非人面行列」と呼ばれ、近年、面掛衆の中に妊婦姿のおかめがいることから「はらみっと」の呼称があたえられたが、現在では「面掛行列」で落ち着いたようだ。
 
 面掛行列の祭礼当日、御霊神社境内には多くの見物人がつめかけた。行列の始まる前には狭い路地がカメラを構えた見物人でごったがえし、派手な芸能が行われるわけでもない村の祭礼にこんなに注目が集まるのかと驚いたが、いざ面掛衆が現れ前を通っていくのを目の当たりにすると、実際そのインパクトには息を呑んだ。伝説や中世の説話文学の世界から抜け出してきたかのようななまなましい姿はほかの祭の中で全く見覚えのないもので、それが現代の街路を、左右に体を揺らしながらゆっくりと通り抜けていく。たしかに奇観というほかになかった。

 面掛行列は鶴岡八幡宮の放生会で行われていた面風流が御霊社に伝えられたものだといわれているが、それは明治の神仏分離にともなう祭式の変更によって、(面の奉納者が坂ノ下に多かったため)面ごと鶴岡社から移されたものだというのである。そうだとすれば面掛行列自体はもともと御霊神社とはあまり縁のなかった行事だということになるだろうか。
 鶴岡社の面風流を模倣して御霊社で始められ、鶴岡社で廃絶した後も御霊社に残ったのだという説もある。
 


(9/18 鎌倉・坂ノ下)

| 千年と一日 | 18:47 | comments(0) | -
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